火の粉がうだつを越えてきた
その日に読んだ本の内容と、同じ日にあった出来事が「結びつく」事ってありませんか?
おそらくよく本を読まれている方ならば少なからず体験していると思いますが。
特別に意識したわけでもないのに、小説の世界のなかでふとその日の事が割り込んでくる。
そんなときはより一層、本の世界にどっぷりとはまり、なにかあらぬ事まで深読み(?)しはじめてしまいます。
最近(といっても先月)、
雫井脩介「火の粉」幻冬舎文庫
を読んでそんな体験をしました。
既に読まれている方の方が多そうですが、極々簡単にあらすじを書いておきます。
裁判官、梶間勲はある事件の裁判において無罪判決を下した。
その二年後、その時は既に裁判官を辞めた梶間勲の隣家に、その無罪判決を下した男が引っ越してきた。
男の至れり尽くせりの善意に梶間家の人たちは心を徐々に開き始めるが...。
突然、話は変わってこの本を買った日、私は長野は北国街道を散策しました。
古い町並みはとても味わい深く、心もなんだか落ち着く感じでした。
さてそこで目にしたのが「卯建(うだつ)」です。
「うだつがあがらない」なんてことばもありますね。
うだつはよっぽど裕福な家ではない限りつくることはできません。
だからうだつというのは一種のステータスでもあるとも言えます。
しかしながらうだつには「防火壁」という立派な役割もあるそうです。
(恥ずかしながら私はその時、はじめて知りました。)
ここで再び、小説の話に戻ります。
私はこの小説の主人公(?)梶間勲の心境を次のように勝手に推測しながら読みました。
(実は梶間勲の「出番」は意外と少ないのです)
できれば自分の手で人を殺すこと(死刑判決を下すこと)はしたくない。
幸い(?)検察側のツメが甘いところをつき、無罪にすることができた。
そして結局、その後も死刑判決を下すようなこともなく辞めることが出来た。
これからは裁判官として築き上げてきた「うだつのあがった」家庭で平和にくらしていこう。
----そして無罪判決を下してから2年後----
どうも家族の者が、どこかで火の粉が降っているようだと言っている。
でも我が家には「うだつ」もあることだし大丈夫だろう。
----しかし事態は急変----
我が家が火事になってしまった!
なぜだ。なにがおこったのだ。
ひょっとして
「私は殺人鬼を解き放ってしまったのか?」(あらすじの一行目の文です。)
さて著者はこの小説で、無罪判決を下した裁判官の苦悩、葛藤を描こうとしたのでしょうか?
私は読後、まったく別のことを考えてしまいました。
「うだつ」なんてただの「見栄」。
大事なことは「外」からくる火の粉ではなく、入ってきた火の粉に耐えうる「内」となっているか。
この小説の梶間家の人間は誰しも皆、ストレス、不満をかかえながら生活している。
しかしそれらについて家族みんなで話し合おうともしない。
そんな希薄な繋がりの家庭の隙間に火の粉が降ってきたら、結果は自ずとわかるでしょ?
小説世界と現実世界が繋がる時、私はあらぬ方向へと考えが突っ走ってしまいます。
しかしこれはこれで面白く読めたからよしとしよう。
でも...この小説を読んだ方の感想、伺ってみたいものです。